HIKARIのこれまで
木のイラスト

ひかりのなりたち1

創世記編
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開所から5年間、東横線沿いの古い一軒家を借りていました。
雨漏り、底の底抜け、ねずみ糞、鍵のかかるのは玄関だけ、という率直に言えば廃屋のような家でした。
補助金が少なく精神障害についての理解の点でもいまよりはるかに環境は厳しく、物件を見つけるだけでも大変な時代に資金を集め、家を手入れし、補助金が下りるまで6ヶ月も自力で運営をされた家族会の方々は、本当に大変だったと思います。

初期の建物自体は廃屋のようでしたが、中の居心地はよかったです。
納期のない内職仕事が中心だったせいか、今よりもゆったりした時間が流れていたように思います。
昼食の後は職員も含め、居眠りをしそうな人が多かったのがこの時期の特徴でした。
開所時に借りていた古い一軒家の外観
ひかり作業所

ひかりのなりたち2

木工創業編
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ひかりで初めて木工作業を始めたのは、開所から3年目ごろだったと思います。
それまでは近所で切り出させてもらった竹を使い、竹とんぼ、足竹踏み、一輪挿しなどを作っていました。
しかし、竹の性質上、作れるものの長さ、在庫品のカビ、切り出しの時期が限られるなどの壁に当たっていて、もう少し、いろいろなことが可能な木を使って作ってみたいと思い始めました。

最初は600円ののみと1000円の豆カンナ、替え刃鋸という道具で、製品というには程遠い代物、今思い出しても冷や汗モノ。
でもそのうちに、元大工のボランティアさんが関わってくれるようになり、材木屋の紹介から、道具の購入、仕込み使い方を教えてもらい、職員も国の職能開発制度を利用して10日間、職業訓練校の木工科で機械の扱い方の講習を受け、ようやく木工作業を始める土台ができました。
木工作業の様子
製作した椅子

ひかりのなりたち3

一回目の引越し
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畳の上での木工作業にも慣れ、何とか木工製作が軌道に乗ってきたひかり作業所でしたが、契約期限切れに、建物の老朽化による取り壊しが重なり、新しい場所を探さなくてはならなくなりました。神奈川新聞に取材記事を載せてもらい、窮状を訴え、カンパを募り、移転先の物件を探しました。

(以下神奈川新聞1987年6月26日より抜粋)

ー私たちの作業所探しに手を貸してー
横浜市港北区大曽根の障害者施設「ひかり作業所」が移転問題で難局に立たされている。作業所は互いに助け合い、生きがいを発見する社会復帰の場。建物取り壊しに伴い、契約期限が来年で切れるため、今年中には新しい場所への移転を求められている。運営資金は常にぎりぎりの状態でありながら三年間続け、やっと地域の理解と協力が得られてきただけに「なんとかこの灯を消さないで」と関係者は訴える。

作業所探しとともに頭を痛めているのが運営資金の問題。市の補助金は人件費、賃貸料で消える。引越し費用など、最低でも約80万の経費が必要だというー


時はちょうどバブル真っ盛りのころ。予算10万以内での物件探しでは不動産屋さんからまともに相手にされず、米国在住の大家さんに帰国してもらい、自宅兼テナントを新築する。または、市有地を無償貸与してもらい、プレハブを建てる、などの案も検討しました。
結果的には、91年、横浜市から、移転のための移転補助金が出ることになり、皆様より頂きましたカンパ150万円と合わせて引越しの資金を手当てでき、大曽根1丁目のロンウェル大曽根に移転することができ、5年がかりの懸案が無事解決しました。
神奈川新聞に掲載された記事
神奈川新聞に掲載された記事

ひかりのなりたち4

ひかり作業所5周年
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ひかり作業所5周年は、設立母体であった家族会「白梅会」10周年にあたり、合同の記念式典を大倉山記念館にて行いました。
 
   (以下記念文集「ひととき」より抜粋
 
私がひかりにかかわり始めた頃は、内職作業が中心で静かな小じんまりとした雰囲気の中で、みんな同じ作業をしていました。五年の歳月のうちに、たくさんのメンバーが利用し、職員の移動もあった中で、活動内容、雰囲気ともに変化してきました。
 
 今は女性メンバーの多くはクッキーづくりで、“キッチン枇杷の木”に、作業所の中では、電ノコがうなり、おがくずの舞う中、木工品づくりと、下請の内職をしています。クッキー、木工と発展的に自主製品づくりを進めることができたのは、技術的な点から販路、日常の作業所でのかかわりなど、いろいろな形でのたくさんのボランティアの皆様の陰に陽にの御協力のおかげです。この場を借りて厚くお礼申し上げます。      (職員 酒巻俊一)
記念式典の様子
記念式典の様子

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